2014年1月16日木曜日

【桶狭間の戦い】今川義元【花倉の乱】



1: 日本@名無史さん 2012/04/09(月) 05:40:40.99
実は悲運の名将だったんだな
後北条家並みに過小評価されすぎだろ




313: 日本@名無史さん 2012/06/22(金) 14:13:28.11
>>1
たしかに、信長の踏み台的な位置づけだよねえ。

たしか、楽市楽座を実施したのは、信長より先だったはず。

4: 義元周辺の概略(前半) 2012/04/10(火) 11:44:02.17
1536年:義元継承に異母兄恵探が反乱。武田信虎などの助勢を得て、これに勝利する。(花倉の乱)
1537年:北条氏綱に攻め込まれ、富士川以東の駿河国東半分を奪われる。(第一次河東の乱)
      同時期に遠江国で堀越氏・井伊氏による反乱。氏綱の采配と思われる。
      三河国にて松平広忠の後ろ盾となり、信定を岡崎城から追放。
1540年:織田信秀が三河国へ侵攻。岡崎城の対岸にある安祥城が占拠される。
1541年:武田信虎が追放される。武田家当主交代。
      北条氏綱死去。後北条家当主交代。
1545年:今川義元、武田晴信の連合軍が富士川を越え侵攻を開始。長久保城を残し駿河国全域を支配下に置く。
      義元と盟約した上杉憲政、朝定、足利晴氏らが相模東方より侵攻。
      窮地に陥った北条氏康、長久保城を義元に引き渡すことで今川・武田と和睦。義元は駿河全域を領土とする。

 とりあえずはここまで。
 こうして見ると、北条氏綱には負けてるけど氏康には勝利してるのな。そして常に武田を傭兵のように活用している。

5: 日本@名無史さん 2012/04/10(火) 12:19:57.97
そういえば、北条早雲は最後まで義元の親父を屋形様って呼んで仕えたんだよな。
今川家の後ろ盾のおかげで伊豆や相模領有ができた。

39: 日本@名無史さん 2012/04/28(土) 05:18:25.28
>>5
北条氏綱の名前は氏親からの偏諱かね

7: 日本@名無史さん 2012/04/12(木) 20:13:02.55
いろいろ説があるけど結局寡兵の信長がどうやって義元の首を挙げたの?

22: 日本@名無史さん 2012/04/18(水) 13:06:20.72
>>7
仮に総勢25000の兵がいたとしても今川義元の本陣に割ける人数は3000とか5000くらい
対する信長は約2000の精鋭ぞろいであり、戦力差はほとんど無いはず
しかも雨があがった直後のまさかの遭遇戦であり、陣を張って待機していた今川側と比べれば
破れかぶれの決死の特攻をしかけた信長側の方が有利
桶狭間は完全に運の勝負だったと思われる

24: 日本@名無史さん 2012/04/19(木) 03:09:15.34
>>19
当時の晴信は義元のパシリみたいなもんだし無理だろう

>>22
ただの雨じゃなく公記によると
「にわかに急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる」(雹を含む豪雨が急に発生して敵の方向に降り注いだ)
「二かい三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒る」(しかも二抱え、三かかえもあるような木が倒れる台風なみの強風)
http://www.youtube.com/watch?v=axn05dZwPpo


つまりダウンバーストが今川本隊に向かって発生したわけで
普通の雨程度なら準備も出来るし、信長は返り討ち必至
信長は超、運のいい奴とは言える

25: 日本@名無史さん 2012/04/19(木) 10:47:06.29
>>24
酒盛り(捏造の可能性もあり)も雨で兵が凍えるのを防ぐための行動だけど、それも仇になったね
信長の人生最大の幸運と義元の人生最悪の不運がちょうどかち合った戦だと思う

10: 日本@名無史さん 2012/04/13(金) 00:13:16.10
織田軍2000人今川軍25000人説があるが3000と45000というの
もある。いくら雨が降っていても酒盛りをしている本陣
に突っ込めたものだぎゃ。

26: 日本@名無史さん 2012/04/19(木) 14:54:21.98
雨が降ったのは突入寸前なので、奇襲成功との関係性は低い。
清洲から善照寺砦を経て桶狭間に至る間に気づかれなかったのは
人為的要素がないと無理なので、簗田出羽守配下の者が街道筋に
手勢を配して、今川方の物見や伝令を討ち取っていたと考えるのが
妥当。
事前に百騎ばかりで奇襲を掛けさせるなどしているので、清洲から
小勢がまばらに出撃するのを不審に思わせない工作もしている。
急な出陣で、兵がまばらに出て、善照寺に終結するのを今川方は
察知出来ず、そのまま物見を封じられて接近を許した。
物見が働いていれば、雨で視界が悪くなれば動き回って情報を得る。
雨だけで気づかないはずがない。
意図して物見を封じない限り、敵方への情報管制は出来ない。
現代戦で言う、電子妨害を掛けたと見るべき。

27: 日本@名無史さん 2012/04/20(金) 01:47:20.19
>>26
でもその考えはあくまで個人の想像の範疇を超えないなぁ
なんせまともな史料が少なすぎる
タイムマシンがあるなら一番最初に見てみたい戦だ

38: 日本@名無史さん 2012/04/26(木) 23:16:33.17
もし義元が桶狭間に勝ってたら、織田は潰れてただろうなぁ
そしたら翌年には斉藤義龍が急死してるし、美濃も獲れるな
そうなったら、もう義元を止められないだろ
焦った武田が駿河に出てきても、北条と挟撃できるだろうし、今川位の名門なら足利将軍の斡旋で長尾と同盟して挟撃も可能
結果論だが、やっぱり桶狭間が悔やまれるな

40: 日本@名無史さん 2012/04/28(土) 12:43:01.28
>>38
日本史上でいちばんみてみたいifですね。

41: 日本@名無史さん 2012/04/28(土) 20:43:43.70
>>40
見てみたいですねぇ

桶狭間で負けなければ、尾張国人は今川方に流れるでしょう。
そしたら多分、駿河・遠江・三河・尾張・美濃に北伊勢辺りまでは順当に支配できるかと。

その辺りから三好・松永に苦戦中の足利将軍から救援要請が入って上洛。
親足利の六角や北畠は同盟か従属させられるでしょうし、朝倉とも悪くない関係を築けるはず。
朝倉と関係が築ければ、当然、浅井も今川方に付いて、一大勢力を築けるでしょう。

そこまでくれば、武田が反旗を翻しても西の守りは盤石だし、北条や上杉と組んで武田に当たる事が出来る。
上杉は将軍の要請には絶対従うでしょうし、上杉と仲の悪い北条も、武田と組んで今川上杉に挟まれるより、同盟を組むほうが得策となるでしょうからね。

不安定要素の武田と決着がつけば、東は盤石。
後は畿内を制圧すれば、将軍を傀儡にしてもよし、家柄的に将軍にとって代わっても良し。

ここから秀吉のように統一に突き進み、義元が亡くなった後は、家康に乗っ取られて江戸幕府というオチでどうでしょうかwww

ま、あくまでも結果論で予想ですが、桶狭間の結果が変わったら、現実的にこうなりそうな気がします。

43: 日本@名無史さん 2012/04/28(土) 23:17:17.59
>>41
朝倉と六角は喧嘩ばっかしてなかったっけ?
それに信長を跳ね返し続けた義龍を、そんな簡単に屈服させられるとは思えない。
義元は岡崎乗っ取りから桶狭間まで12年もかけているし、同じくらいの時間を尾張平定に費やすんじゃないかな。

急激に支配地を広げる代わり、よく反乱にあう信長。
ゆっくり支配地を広げる代わり、内乱は滅多にない義元。
そんなイメージ。個人的に。

上手くいって、毛利元就みたいな感じになるんじゃないかなぁ。美濃、近江あたりを従属させるくらいで寿命が来そうな気がする。

そして二代目は……。

50: 日本@名無史さん 2012/04/29(日) 22:05:58.12
>>43
確かに。
隣接している大名同士は仲が悪いのは普通。
だがそこに、駿河・遠江・三河・尾張・美濃・北伊勢を領有し、足利将軍家の後ろ盾となった今川家が現れたらどうなるのか。
って考えたら、仲良くしろよって言われたら、仲良くせざるを得ないんじゃないかなって思って。
そして、足利将軍家を守るという大義名分で、三好・松永を共通の敵として据えられたら、手を結ぶんじゃないかな…と。
信長がぶっ壊したから、旧体制が崩壊してきている訳で、信長がいない前提で考えたら、足利と今川に言われたら従うでしょ。
という憶測w

尾張や美濃の平定も同じで、織田家が潰れて無秩序となった所に、権威を持った今川がやってきたら、平定はスムーズに進むんじゃないかな。
例えば尾張の守護の斯波や、美濃の守護の土岐家を今川の重臣として復活させるとかしながら平定したり。
信長が最初苦戦した(反乱が多い)のは、そういう権威がない下剋上だから、国人たちに理解されずに苦戦したと思うんだよね。

美濃に関しては、義龍は桶狭間の1560年の翌年に急死しているから、義元の相手は家督を継いだばかりの龍興。
下剋上斉藤家で、まだ、国人衆にも認められてない与し易い相手だと思うよ。
さらに信長の時より今川の戦力は数段上になるし。

三河の松平は特殊で、元々地元の豪族から成りあがって、支持率が高かったし、最初、今川は織田から松平を守るという名目で三河に絡んだから、平定に時間がかかった。
松平を生かすという目的で入り込んだんだから。
だから尾張・美濃と三河は別物だと思うんだよね。

全ては憶測。
いろんな想像ができるからIFは楽しいww

92: 日本@名無史さん 2012/05/12(土) 14:02:14.74
桶狭間と言う地名が一人歩きしてるけど、本当は田楽狭間って場所じゃないの?
義元が討たれたのは

94: 日本@名無史さん 2012/05/12(土) 21:35:51.52
説というか、布陣したのが桶狭間山でしょ。

95: 日本@名無史さん 2012/05/12(土) 23:54:29.29
田楽狭間って説も根強いね

96: 日本@名無史さん 2012/05/12(土) 23:58:30.47
田楽狭間説は、織田軍の迂回説がほぼ否定されて正面攻撃説が主流になって
から(正面攻撃説では、桶狭間山に攻め登ったことになってる)、あまり
言われていない気がする。

114: 日本@名無史さん 2012/05/15(火) 21:05:58.61
天気よくても負けてただろ
むしろもっと損害が増えてたかも試練

117: 日本@名無史さん 2012/05/15(火) 23:19:17.13
>>114
どんな平将でも晴天だったら100%今川勝利だな
情報収集がなってない信長は義元本隊を戦闘で疲弊した部隊と勘違いして
こちらが少勢で強襲しても勝てる、あるいは大損害を与えられると思ってるわけだが
数の多い山上に陣する今川隊は十分に信長を迎撃する体勢を作る時間がある
(実際にはあられまじりで並みの台風以上の強風で陣を乱し
超豪雨では50m先も見えないので接近しててもわからず
晴れた時には織田軍はすぐ近くにいて十分な戦闘準備不能w)

121: 日本@名無史さん 2012/05/16(水) 12:40:32.95
>>117
中島砦は今川軍から丸見えの平地
今川軍は既に布陣済み
そこから出てきた信長軍は今川軍から丸見え
天候悪化は出陣後
気象条件は信長も義元も同じ

なのになぜか鎧袖一触で今川大敗
今川雑魚杉やろw
晴れてたって完敗・討死は必至

136: 日本@名無史さん 2012/05/19(土) 00:22:42.68
「山澄本桶狭間合戦記」
この合戦日五月十九日暑気甚だしきこと此年に罷成迄終に不覚、
偏に猛火の側に居る如し、午前より日輪の旁に一点の小黒雲か何そと怪しき物見えたり、
其の一点忽ち一天へ広がり、称り漫々として暗くなり、稀有の大風雨

「尾張志」
折しも、天俄にかき曇り黒雲おほひて四方暗夜の如く。
暴風、熱田の方より吹來り。大雨、石礫を打か如く。咫尺(シシャク)の間も見えさりけり

165: 日本@名無史さん 2012/05/20(日) 12:09:31.06
2万5千の兵が一気に尾張に侵攻してさらに兵力を分散したわけじゃないぞ?
まず総兵力のうちいくらかは本領を守るために置かれる
つぎに鳴海城と大高城は織田の砦に包囲され攻撃を受けているのだからそこでも総兵力から割かれている
この時点で2万5千(仮)の内から結構な数が差し引かれる
今川本陣は前衛と合流するために沓掛城から出たばかり、非戦闘員や雑兵も多い
山に陣を張った義元有利というが、それは晴れている場合
実際は直前に豪雨が直撃して兵は混乱している

それに大名に必要な能力は戦だけじゃなく政治やその他の部分も大事だ
最後の敗北だけをクローズアップしてこいつは無能だというのは浅はかではないか?

167: 日本@名無史さん 2012/05/20(日) 19:50:24.02
>>165
2万5千といわれてるのは今川家の総兵力じゃなくて、尾張侵攻戦の動員兵力(の一説)なわけだが
信長公記だと4万5千
で、それを分散させたのは義元
晴れてようが豪雨だろうが高地の方が有利に決まってる
で、豪雨という条件は今川織田とも同じで、敵が目の前にいるのにそれで自分だけ混乱してたんなら、
義元は致命的に軍事的無能
つか、そんな現実から目をそらして信長の勝利が運だとか言ってるやつはイタすぎ
で、軍事的能力の話してんのに政治がどうたらとか、的外れも甚だしい

168: 日本@名無史さん 2012/05/20(日) 20:51:53.26
2万5000って言う数字は江戸時代の1万石当たり250人の軍役から割り出された数字だろう
軍役は主君の命で領国外に動員する兵力だから留守中の領国の守備兵力は別にいるはず

169: 日本@名無史さん 2012/05/20(日) 22:25:38.46
公記は別に絶対に信頼できるソースじゃない、4万5千の兵がいたというのは太田牛一の間違いかもしれない
実際太田牛一は幾つかの年号を間違えている
あるいは誇張表現の可能性もある
信長公記は織田信長が主役の軍記だ、脚色もあるだろう
いずれにしても太田牛一は今川の兵力事情には詳しいわけではないのだ、実動員兵を把握していたのかもわからない
兵の分散に関しては、鳴海と大高が攻められているのを黙って見ているわけがない
尾張を平定したいのに重要な拠点を落とされるわけにはいかないからな、だから後詰めに兵を割くのは当然だ
豪雨という条件は両者で違う
今川は正面に雨が直撃している、大して信長は背面からで、ここにかなりの差がある
あと雨に乗じて旗を下げて今川軍に偽装して近づいたって説なんかもある
格好がつかないから意図的に削除されたって説だがこれに関しては何とも言えない

173: 日本@名無史さん 2012/05/21(月) 01:19:22.16
>>169
>兵の分散に関しては、鳴海と大高が攻められているのを黙って見ているわけがない
>尾張を平定したいのに重要な拠点を落とされるわけにはいかないからな、だから後詰めに兵を割くのは当然だ

全然当然じゃない。何故なら両城は近くに砦を築かれて封鎖されていたのであって、
織田の主力に攻められていたわけでもなく、今川の大軍が既に目と鼻の先に来ている以上、
既にその封鎖は風前の灯火状態。危機的状況ではなかった。
むしろ危機にあったのは織田方の砦群の方で、現に桶狭間の合戦の当日に2つ落とされている。
わざわざ本陣を危険に晒してまで兵力を分散させる必要はない。

っていうか、今川方はそんなに兵力分散させてないだろ。
葛山がよく分からんとこにいるのを除けば、丸根鷲津に派遣された松平朝比奈も
義元本陣からせいぜい数キロのとこにいたんじゃないか?

>今川は正面に雨が直撃している、大して信長は背面からで、ここにかなりの差がある

大差ないない。こんなもの何の言い訳にもならないよ。
以下、雹混じりのダウンバーストの話をどうぞw

176: 日本@名無史さん 2012/05/21(月) 09:48:58.09
>>173
顔面に水をぶっかけられるのと背中にかけられるのと、全然違うのが理解できない?
今川はいわば目つぶしをくらった状態だ
あんたは顔にバケツ一杯の水をかけられた直後に顔を拭う間もなく襲われても平然と戦える?
それに雨が顔に降りつけたのなら風も結構な強風だ
今川は向かい風で織田は追い風
今川の兵が戦いにくいことは用意に想像できる

信長が攻撃をしかけたのは雨が上がってからだが、これは完全に雨が上がったのではなく
一時の晴れ間が見えた時に攻撃したとも考えられる
つまり戦闘中も今川は雨の目つぶしをくらっていた可能性もある

204: 日本@名無史さん 2012/05/21(月) 21:57:53.55
太原雪斎が生きていたらあんな失態はやらかさなかったと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿