1: 日本@名無史さん 2014/01/04(土) 16:11:40.61
誰ですか?
3: 日本@名無史さん 2014/01/04(土) 17:29:00.34
参考
日光東照宮
祭神
主 徳川家康
相伴 豊臣秀吉
源頼朝
家康は吾妻鏡を愛読
日光東照宮
祭神
主 徳川家康
相伴 豊臣秀吉
源頼朝
家康は吾妻鏡を愛読
4: 日本@名無史さん 2014/01/04(土) 19:57:39.89
源頼朝は源氏嫡流
足利尊氏は源氏嫡流
徳川家康はなんちゃって源氏嘘流
足利尊氏は源氏嫡流
徳川家康はなんちゃって源氏嘘流
7: 日本@名無史さん 2014/01/04(土) 21:24:32.42
>>4
頼朝が嫡流というのも後付けだとも言われてるけどな。
頼朝が嫡流というのも後付けだとも言われてるけどな。
5: 日本@名無史さん 2014/01/04(土) 21:00:49.58
日本の歴史(中世~近世)
◆鎌倉幕府(1185~1333年)◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338~1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467~1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603~1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614~1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
◆鎌倉幕府(1185~1333年)◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338~1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467~1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603~1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614~1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
6: 日本@名無史さん 2014/01/04(土) 21:04:51.17
■日光山
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝
母方の従兄弟
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
寛伝年表
・1142年、生まれる
・叔父の三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)を頼って滝山寺(愛知県岡崎市)で仏門に入る
・仁和寺で修行
・1182年、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
・宗徒と面会する際、御簾を半分にしか上げず紛紜、2ヶ月で三河国(愛知県岡崎市)に戻る
・菩提寺の滝山寺(愛知県岡崎市)僧侶になり、66郷を領し精舎一区を創建する
・鑁阿寺奥院の法界寺に、宋版の一切経を納める(後に一切経は、足利義氏により鑁阿寺に)
・高野山御影堂に大鐘を施入する
・1201年、頼朝公の3回忌、滝山寺内に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を安置する
・惣持禅院に供僧10人を常置し10町の土地を寄進する
・1205年、死去する
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝
母方の従兄弟
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
寛伝年表
・1142年、生まれる
・叔父の三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)を頼って滝山寺(愛知県岡崎市)で仏門に入る
・仁和寺で修行
・1182年、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
・宗徒と面会する際、御簾を半分にしか上げず紛紜、2ヶ月で三河国(愛知県岡崎市)に戻る
・菩提寺の滝山寺(愛知県岡崎市)僧侶になり、66郷を領し精舎一区を創建する
・鑁阿寺奥院の法界寺に、宋版の一切経を納める(後に一切経は、足利義氏により鑁阿寺に)
・高野山御影堂に大鐘を施入する
・1201年、頼朝公の3回忌、滝山寺内に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を安置する
・惣持禅院に供僧10人を常置し10町の土地を寄進する
・1205年、死去する
8: 日本@名無史さん 2014/01/05(日) 02:41:36.31
源頼朝
9: 日本@名無史さん 2014/01/05(日) 08:53:05.97
三河の源氏なんちゃって伝承は徳川が源氏に擦り寄るために創作したお花畑物語
よって創作部門第一位は徳川家康
よって創作部門第一位は徳川家康
13: 日本@名無史さん 2014/01/05(日) 19:04:15.35
足利義満(3代目足利将軍、1358~1404)年表
【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が、摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が、三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)に、一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
-------------------------------------------------------------------------
【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1367年】足助重宗(足助重範の孫)の子・重政(寛立上人) が、松平郷主・在原信重の支援を得て、三河国加茂郡松平郷に寂静寺(高月院の前身)を開創する
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)に、天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬郷(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺本堂(4度目)を建替える
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)を、京極高詮に還付する
【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が、摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が、三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)に、一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
-------------------------------------------------------------------------
【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1367年】足助重宗(足助重範の孫)の子・重政(寛立上人) が、松平郷主・在原信重の支援を得て、三河国加茂郡松平郷に寂静寺(高月院の前身)を開創する
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)に、天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬郷(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺本堂(4度目)を建替える
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)を、京極高詮に還付する
14: 日本@名無史さん 2014/01/05(日) 19:05:01.34
【1388年】富士山遊覧、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の矢作宿に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1390年代】足助重宗(足助重範の孫)に、尾張国野間荘を還付する、当時の野間荘は、高師直領を将軍家預かりとなっていた模様
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家する
【1397年】三河国碧海郡(愛知県岡崎市)の永源寺(創建:斯波義将)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(愛知県田原市)を京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀(愛知県岡崎市)の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去する
-------------------------------------------------------------------------
【1440年】松平信光(3代目松平氏当主)、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺寺領内に、神のお告げで万松寺を創建する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1390年代】足助重宗(足助重範の孫)に、尾張国野間荘を還付する、当時の野間荘は、高師直領を将軍家預かりとなっていた模様
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家する
【1397年】三河国碧海郡(愛知県岡崎市)の永源寺(創建:斯波義将)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(愛知県田原市)を京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀(愛知県岡崎市)の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去する
-------------------------------------------------------------------------
【1440年】松平信光(3代目松平氏当主)、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺寺領内に、神のお告げで万松寺を創建する
19: 日本@名無史さん 2014/01/08(水) 00:10:23.15
大雑把に
軍人としてなら
家康>尊氏>>頼朝
政治家としてなら
頼朝=家康>>尊氏
こんなもんだろ
軍人としてなら
家康>尊氏>>頼朝
政治家としてなら
頼朝=家康>>尊氏
こんなもんだろ
20: 日本@名無史さん 2014/01/08(水) 00:23:09.86
足利尊氏が最も重要だゼッ!!!
なにしろ京の都に幕府を開いたからナッ!!
なにしろ京の都に幕府を開いたからナッ!!
21: 日本@名無史さん 2014/01/08(水) 10:04:47.05
・武家政権確立
・500年中興の祖
・250年稀な安定
好きなの選べば
・500年中興の祖
・250年稀な安定
好きなの選べば
23: 日本@名無史さん 2014/01/08(水) 21:16:17.56
全部。
それぞれ個性が違うし、時代環境も違う。
それぞれの時代にそれぞれ適応してた。
それぞれ個性が違うし、時代環境も違う。
それぞれの時代にそれぞれ適応してた。
30: 日本@名無史さん 2014/01/09(木) 07:25:47.56
■日光山
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝
母方の従兄弟
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
万年パシリ乙w
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝
母方の従兄弟
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
万年パシリ乙w
34: 日本@名無史さん 2014/01/09(木) 12:53:50.74
霜月騒動で三河の頼朝譜代はやられたが、尊氏はその敵討ちしただけだろうw
・足利氏←三河守護
・安達氏(三河国八名郡小野田)←泰盛は三河国渥美郡小松原荘地頭
・足助氏(三河国加茂郡足助)←三河国加茂郡足助荘地頭、頼家に室を出し生まれた子供が公暁
・吉良氏(三河国幡豆郡吉良)
斯波氏(三河国額田郡矢作)
・中条氏←三河国加茂郡高橋荘地頭、中条家長は八田知家猶子
・二階堂氏←二階堂行政の母親は三河の藤姓熱田大宮司家出身、三河国碧海郡重原荘地頭
・大江氏←大江広元は、元々、三河の藤姓熱田大宮司家の家来か?広元の4男が藤姓熱田大宮司家に養子入り、尾張国海東郡地頭
これ全部やられちまったんだからよ
・足利氏←三河守護
・安達氏(三河国八名郡小野田)←泰盛は三河国渥美郡小松原荘地頭
・足助氏(三河国加茂郡足助)←三河国加茂郡足助荘地頭、頼家に室を出し生まれた子供が公暁
・吉良氏(三河国幡豆郡吉良)
斯波氏(三河国額田郡矢作)
・中条氏←三河国加茂郡高橋荘地頭、中条家長は八田知家猶子
・二階堂氏←二階堂行政の母親は三河の藤姓熱田大宮司家出身、三河国碧海郡重原荘地頭
・大江氏←大江広元は、元々、三河の藤姓熱田大宮司家の家来か?広元の4男が藤姓熱田大宮司家に養子入り、尾張国海東郡地頭
これ全部やられちまったんだからよ
53: 日本@名無史さん 2014/01/10(金) 20:51:33.98
徳川家は新田源氏を祖ですと愛知県三河岡崎市
↓
それを知った群馬県太田市がそれでは徳川家の発祥地は太田市新田ですねと告知
↓
それを知った岡崎市が太田市新田は発祥の地ではありませんと怒り新党
今だに出目がフラつく得体知れずの徳川がすごい
足利氏や源氏は得体が知れていてつまらん
↓
それを知った群馬県太田市がそれでは徳川家の発祥地は太田市新田ですねと告知
↓
それを知った岡崎市が太田市新田は発祥の地ではありませんと怒り新党
今だに出目がフラつく得体知れずの徳川がすごい
足利氏や源氏は得体が知れていてつまらん
62: 日本@名無史さん 2014/01/14(火) 01:30:46.39
>>53
徳川家の前身の松平家の発祥地は、三河国の松平。
徳川家の前身の松平家の発祥地は、三河国の松平。
63: 日本@名無史さん 2014/01/14(火) 02:11:36.39
>>62
松平という家は三川の糞山奥にあるが、
初代親氏は別に三河出身でないどころか出自も出身地すら得たいしれないから世良田得川を称したんだろ
松平時自体が問題じゃなく、その松平家を婿養子とは名ばかりの乗っ取りした親氏自体が徳川家の祖なんだから、
現実的にいや遺伝的発祥はどっちもかんけいない
松平という家は三川の糞山奥にあるが、
初代親氏は別に三河出身でないどころか出自も出身地すら得たいしれないから世良田得川を称したんだろ
松平時自体が問題じゃなく、その松平家を婿養子とは名ばかりの乗っ取りした親氏自体が徳川家の祖なんだから、
現実的にいや遺伝的発祥はどっちもかんけいない
54: 日本@名無史さん 2014/01/11(土) 09:42:08.17
源頼朝
55: 日本@名無史さん 2014/01/11(土) 10:11:18.29
源頼朝はS体質で恐怖政治で失敗
足利尊氏は乱交プレー体質で幻想政治で失敗
徳川家康はM体質で忍耐政治で成功
よって足利尊氏の圧勝
足利尊氏は乱交プレー体質で幻想政治で失敗
徳川家康はM体質で忍耐政治で成功
よって足利尊氏の圧勝
64: sage 2014/01/14(火) 21:38:06.27
徳川家康って最初は藤原氏の末裔を名乗っていたんじゃねえ?
ってことはハイブリット家系???
凄いじゃんwwww
ってことはハイブリット家系???
凄いじゃんwwww
65: 日本@名無史さん 2014/01/14(火) 23:27:59.40
途中から本姓を変えるなんて当時はよくあることで、
正直別にすごくない。
正直別にすごくない。
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